二代目彦兵衛には、長男常吉、次男亀次郎、三男吉之助の三人の男の子がいました。長男の常吉は倹約家の父二代目彦兵衛の家督をしっかり受け継いで三代目彦兵衛となります。次男の亀次郎は九段から下戸塚へ引越しをして来たその日、父彦兵衛が隠し持っていた小判入りの瓶を覗き見て「あれで一生遊んで暮らそう」と、決め、それをやり通しました。亀次郎は二代目彦兵衛からその後勘当され、兄にも弟にも迷惑をかけました。江戸一番のいい男と噂された遊び人亀次郎は、新宿の遊女お倉と所帯を持ち上方で苦労の連続の末、戻ってきた二人は明治二(一八六九)年、活気にあふれる横浜で商売をして頑張り、明治四(一八七一)年、駒形町にあった料理屋を買い「富貴楼」の看板を出しました。二年後、明治六年に横浜尾上町に移した「富貴楼」はここで全盛期を迎えました。三男の吉之助は、天保改革で追放になった植木屋仲間、向島の萩原平作の養子となります。平作の家は東向島白鬚ひげ神社の近くにありました。そこへ同じく改革で追放にあったもう一軒の植木屋、三河島の伊藤七郎兵衛の娘を、養子の吉之助の妻として迎え入れました。天保の改革で追放にあった三軒の植木屋は、ここで全て親戚関係となりました。吉之助は萩原平作の名跡をつぎました。
しかし、平作は維新のとき再三押し込み強盗に合って家屋敷を失ってしまいました。三度目のときは、房州へ逃げる旧幕府の兵士に押し込まれ、抜き身のだんべらで頬をたたかれ全財産を持っていかれ田畑を手放すこととなり、失意のなか、平作は川に落ちて亡くなりました。自殺ともいわれます。それがために幼い三人の子のうち、一番上の庄吉(のちの五世清元延寿太夫)が、高田馬場の叔父の三代彦兵衛宅へ、二番目の兼次郎は横浜富貴楼の叔父のところへ、末の秀作は望まれて五代目尾上菊五郎の養子へと、それぞれ引きとられたのです。以前、町内の仲間と『わが町の詩、下戸塚』(昭和五一年刊)を編纂しているとき、私はもっぱら古老を訪ねて取材しました。そのとき、古くからのお客様の志村さんを訪ねたときです。志村さんの奥さんは、斎藤彦兵衛の末裔に当ります。「やはたさん!それなら五世清元延寿太夫の自伝で『延寿芸談』という本があるから、きっと参考になると思うわ…」というのでお借りしたところ、大いに参考になりました。自伝の八割以上が芸のはなしですが、最初の「おひたち」のところから一部抜粋してみます。
「私は文久二年八月十三日向島に呱々の声を揚げたのです。兄弟は七人あり、すぐ上の兄は天然痘にかかって夭逝しました。/弟の兼次郎は横浜「富貴楼」の伯父のところへ養子に行きました。末弟の秀作は五代目菊五郎に望まれて養子となり尾上菊之助を名乗りました。
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