商店街紹介 – ページ 2 – ワセダグランド商店会 公式ホームページ
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商店街紹介

 中仙道、川越街道、青梅街道へ行く江戸市中からの旅人が、馬場の茶屋で一服していく姿も多く見られ、茶屋の前を近郊から野菜を積んだ荷車も頻繁に通るようになり、馬場の北側の土手に松が植えられた頃には茶屋が八軒並びました。高田馬場も幕末の維新前夜が近づくころになると、賑わいを見せた茶屋町通りと八軒の茶屋はすっかり静まりかえり、高田馬場から馬のひずめの音も全く絶え、徳川清水家の下屋敷(現甘泉園)に人影も無く荒れ果てた状態となり、他の武家屋敷も化け物屋敷となりました。薩長の朝廷軍が京から江戸にむかってくるという報せに、江戸で迎え撃つ幕府軍との間に大戦争が起こるという話が飛びかい、恐怖心から、家財とともに市中から近在へのがれていく者が多く、江戸の人口が激減しました。戸を閉める店が目立ち、騒然とした中で治安をつかさどる町奉行所は機能を失い、無法状態になった町々に辻斬りや集団を組んだ盗賊が豪商の家に押し入って金品をうばい、家人を殺傷する事件が次々と起こり、高田馬場の八軒の茶屋は全部が店を閉めてしまいました。

 維新の後数年が経過すると荒れ果てたままの高田馬場を目前にしたもとの茶屋のあるじたちが新政府に馬場の土地の払い下げを願い出ました。幸い許可がおり、八軒が高田馬場の土地をゆずりうけることとなったのです。郷土誌『新編若葉の梢』( 昭和三十三年刊) の中で、高田馬場の茶屋、川口家の末裔福本金五郎(明治十七年生れ)さんが昭和三十一(一九五六)年に語っています。「高田馬場が八軒の茶屋に払い下げられた時、私の家は川口家分として約四七〇坪、この土地の代償としては当時金五円と酒一升でございました。この話は祖父四郎兵衛から聞かされていました。茶屋当時を偲ぶ記念品としてはただ一つあります。それは房州石で造った田楽や団子を焼く炉であります。戦時中まで藁屋根造りの六畳二間続き、四尺廊下の凝った屋根の離れがありましたが、強制疎開で取りこわされました。」

 福本金五郎さんは私の祖母せいと睦合 小学校(戸一小の前身)の同級生で初代宮原校長のときの生徒でした。金五郎さんのお孫さんがドリフターズの高木ブーさんと結婚し、茶屋、川口家が在った地所内に家を建てて住んでいますが、ブーさんは奥さんに先立たれてしまいました。八軒あった茶屋で、今も残るもう一軒の茶屋「甲州屋」の行田家は茶屋の跡地に現在も住んでいます。大正二(一九一三年、行田久蔵さんによって、行田家のすぐ前に先祖の遺志である「堀部武庸加功遺跡之碑」が建てられました。この碑は現在、水稲荷神社境内にあります。数百年の間、変ることなく現在に至っている「茶屋町通り」は、歴史的に大変貴重な道路と言えます。日露戦争が終わり、目白の学習院長を務めていた乃木希典将軍が、赤坂の自邸から馬で目白を往復していたとき、茶屋町通りを朝、通る時刻が一定だったので町の人の時計代わりになったそうですが、ここにも乃木将軍の人柄が見えるような気がします。