寛政五(一七九三)年の春、十一代将軍家斉公が佐野肥前守義行を随へ、尾張大納言光友の戸山の下屋敷(現戸山公園)を参観に牛込御門から神楽坂をのぼり、穴八幡宮別当寺放生寺で休息したのち戸山荘に入り、お庭を遊覧されました。戸山の庭園は、水戸家の小石川後楽園に拮抗する名園で、十三万坪の庭園は、日本趣味に重きを置いたもので、家斉公もお好みの庭園だったといいます(後に十二代将軍家慶公も訪れています)。広いお庭には江戸から京都までの五十三次の名物名産を揃え、渡舟、山路茶屋、本陣旅籠など東海道の名所が置かれていました。尾張公は大御所家斉公が度々お成りになる毎に手を入れ、美しさにみがきをかけたといわれています。川柳に、「御所と冨士お庭の中にないばかり」 「結構さお庭に木曽路ないばかり」「五十三次日帰りのご遊覧」「雲助がないがお庭の不足なり」「駒下駄で越すはお庭の箱根山」などがあります。尾張公自慢の戸山荘の庭園をご覧になった家斉公も、趣味の庭普請では負けていません。吹上奉行に命じて、ここに池を掘れ、その木をあそこへ植え替えろ、築山はあの辺りに造れと、ひと晩でお庭を一変させて楽しむことがたびたびあって、その都度、庭師たちは人夫を集め、かがり火を焚いて徹夜で敢行するのですから、江戸城に出入りの庭師が総出で行ったことと思います。それだけに彼等の収入も莫大なものとなりました。
家斉公が没し、家慶公が十二代将軍となると、老中に水野越前守忠邦が就くことになりました。水野忠邦は職に就くや速やかに「天保の改革」を進めていきました。水野の「勤倹と文武」を奨励する天保の改革は先ず、前代家斉公の寵臣若年寄林肥後守忠英、側衆取次水野美濃守忠篤、小納戸美濃部筑後守を免職とするや、次に奢侈取り締まりの手始めとして、天保十二(一八四一)年十一月、幕府の植木用達を務めていた九段の斎藤彦兵衛、三河島の伊藤七郎平、向島の萩原平作の苗字帯刀を許された庭師三名に対し、豪壮な居宅や庭園の取り払いを命じました。次に高級料理店や水茶屋など水商売を統制、続いて役者が処罰を受けることとなり、天保十三年六月、市川海老蔵が奢侈に過ぎるとあって、木場の家宅を取り崩し、財宝を取り上げられ、江戸十里四方追放となりました。その他の人気役者もお灸をすえられぬ者はなかったといわれています。戯作者や版元も条例に従って処分をうけました。生真面目な水野越前守忠邦の天保の改革は多くの江戸庶民から怨まれるところとなり、天保十四年九月に水野が失脚することとなり、老中に温厚な阿部正弘が就くと、貧乏よりも倹約が嫌いな江戸っ子たちは「これで世がなおります」と小躍りして喜んだといいます。
天保の改革で水野越前から睨まれ、いの一番で取り払いを命じられたのが、江戸城のお膝元、九段の庭師二代目斎藤彦兵衛で、邸宅は九段下から坂を見上げた右角にありました。初代彦兵衛は、仕事中に石灯籠を移動しているときに首を痛めたため首が少し曲がっていました。たまたま庭に家斉公がおられ、彦兵衛を見て、「その首はどうして曲がっておる」と手を首に当てたので、これを一代の光栄と「俺は大御所様お手つきの首を持っている]と自慢したといいます。天保の改革で追放となった二代目の彦兵衛は家族と大勢の職人を引き連れ、広大な土地を求めて下戸塚の荒井山」へ引っ越して来たのです。荒井山は八幡坂を登った左側の小高い丘で高田馬場から馬のひづめの音が絶え間なく聞こえて来ますが、近くに穴八幡の森も見え、とても静かな所でした。二代目彦兵衛が下戸塚へ移って来た訳は、植木職の仲間が大勢いたからです。将軍の「明日までに!」という無理な庭造りにも、力を貸した大職人でした。そして、戸塚の仲間たちは「斎藤」と呼ばず「九段」と呼んでいました。それでは二代目彦兵衛が天保年間に下戸塚の荒井山にやって来てからのはなしをしてみたいと思います。